2011年10月1日土曜日

夢のかけらNo.63『出会いは絶景である』 2011年10月1日号


『出会いは絶景である』 
俳人 永田 耕衣氏のことばより


出会い系サイトなどという言葉がある。


内容がいかなるものかは知らないが、言葉はたまに聞く。

出会いという言葉は軽く使われたりもするようだ。

しかし、一生を決める様な出会いはそうはない。

幸運としか言いようのない出会いもあると思うが、やはり求めていたからこそ出会えるのだと思うようになった。

周りの人たちには求めただけ出会えるのだと言っている。

33歳の春、私は迷いの真っただ中にあった。先輩達にも告げずにこっそりと国画会に油絵を三点出品した。

自信があった訳ではない。

野見山暁冶風の迷いの塊のような絵だった。

案の定落選した。そこで決心がついた。

森士郷先生の所に手紙を書いた。

五月から教室に通いますのでよろしくお願いしますという内容だった。

その時、三年後には書で個展をするという決心を誰にも言わずに心に秘めていた。

師にももちろん言わなかった。

半年ほど通ううちに師匠の声が聞こえるようになった。

田舎には信頼できる書家も居なくて懐疑心と反骨の炎が燃え上がっていた。

そこにやっと師の声が聞こえるようになるのに半年もかかった。

後から思うと、「我」が一つほどけた時だと思う。

予定から半年後の三年半後に日田の寿屋で(建物はあるが店はなくなった)個展を開いた。

その時の喜びで「我」の底が抜けたように思う。

二十一歳年上の師匠に二十一年間付いて、常に真剣勝負の出会いが続いた。

出会いは一度の出会いで終わるわけではない。

ギリギリの作品を見てもらうことで新しい出会いが生まれる。

師匠とは常に新しい出会いが続いた。至福の時だったと思う。

その間師匠は幾度となく病に倒れ、家庭にも恵まれなかった。

師匠との別れがいよいよ近いと感じた時、私は、書道界での少ない肩書きを捨てることに決めた。

誰にも相談せず自分で決めた。

その時の本心は今まで誰にも話していない。

師匠の七回忌も過ぎて、一度だけここに書き留めておきたい。

私は殉死を考えていた。

私を誰よりも理解してくれた師匠に殉死したいと考えていた。

本当に自殺しようとは考えなかったが、大切にしてきたものを捨てようと思った。

六十歳になったら漠然と辞めたいと考えていたので未練はなかった。

三月、県美協会員と日田書道協会会員を返上した。やめることを師に報告すると、

地元だけはやめない方がいいのではないかと心配してくれた。

私は何も答えなかった。

私は自分の手で最も大切な幹を切った。

ずっとそう思ってきた。

六年経ち、幹の横からひこばえが何本か立ってきた。

私はあの時に死んだことで、また新しい生を得たと考えている。

お浄土に行って還って来たと言ったら、親鸞さんファンから叱られるだろうか。

私は六年間誰にも言わずにそのことを温めてきた。

これからの生、己の中の化け物と阿弥陀さんとを同時に感じながら、いくらかでも利他行で生きれたらと願っている。

あらためて思う。「出会いは絶景である」と。

そして、出会いは求めただけ得られると。この言葉は永田 耕衣氏に教えてもらい、自分の生で確かめることが出来た。

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