2011年10月1日土曜日

夢のかけらNo.63『車中座禅』 2011年10月1日号

北九州に通いだしたのは三十三歳の五月だったから、丸二十七年になる。


多い時は月に五回通っていた。

片道およそ八十五キロ、車で二時間十分。

若い頃、時期をずらして三人を師匠の所へ連れて行ったことが、四、五年ある。

その他はいつも一人旅。

二時間は長いですね、と言う人が多いけど、この二時間がちょうどいいのですと言ってきた。

行きは、『書』のことを考えながら運転する。

帰りには、師匠に言われたことを何度も反芻した。

師匠はあまり他人を褒める人ではなかった。

言われたことが腑に落ちずにムカムカする。

しかし、一時間ぐらいするとスウッと腑に落ちる。

そういうことが度々あった。

そこで周りの人たちにはよく言っていた。

一時間ではだめで二時間だからいいのですと。

一時間で腑に落ち、後の一時間で、帰ったら何をやろうかを考えた。

後の一時間で脳は活性化され、次々にやることが湧いて出た。

それは快感だった。

小倉を出て一時間二十分ぐらいの所に峠がある。

峠を越える頃には、気持ちは広々とした所を遊んでいた。

四十歳を過ぎた頃から仏教を深く学びたいと思うようになった。

十代の後半からモヤモヤしていたものが、仏教の教えの中に解決法があると確信したから。

その頃から車中座禅と思うようになり、テープで法話を聞き始めた。

それは今も続いている。

現代人は忙しいから、座禅と言って座ってばかりはおれない。

いろんな座禅のやり方を工夫しなければいけないという啓蒙書を読んでいたので、そのような癖がついたのだと思う。

私の様な怠け者で弱い人間は、何時間も何日間も座禅を続けるということはとてもできない。

今は小倉に月二回、大分に月二回通っている。

大分は片道一時間半とちょっと短いが、高速道路を使い、道中が起伏に富んでいるので小倉とはまた味わいが違う。

今のわたしにはちょうどいい回数と思っている。

ところで、座禅というのは、何も考えないと思う人が居るかもしれないが、そんなことはない。

体に対して巨大な脳を持った人類は、何も考えないということは無理な話だ。

常に何かを考えているのが宿命だ。

他人から見ればボンヤリしているように見えてもあらぬ妄想をしているのかもしれない。

だいたい人の考えることは、名利と異性のことぐらいと考えていいと思う。

難しい哲学や数学や宗教のことなど考えている人は稀で、金儲けしたい、有名になりたい、異性に良く思われたい、出来れば深い関係になりたいぐらいのことが頭の中を駆け回っている。

そういった一切のことを振り捨て、投げ捨てし続ける。

こだわりを捨て続ける。

としたところでやはり考え事はまとわりついてくる。

その繰り返しが座禅なのだと思っている。

そして、運転中だから周りを注意深く見ていなくてはならない。

しかし、長いことやっていると運転しながら座禅することが苦にならなくなる。

道元禅師は、「ただ座れ」と言った。

こうしたらこういう効果がありますよ、と言うのは商売人や政治家の話だ。

座禅は考え事とは違う。

深い宗教体験をしながら運転している。

私の体が箱バンの形になって、移りゆく風景を全身全霊で感じながら運転している。

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