2011年10月1日土曜日

夢のかけらNo.63『読書は脳にとって食事』 2011年10月1日号

一、生まれて
二、生きて
 1 親に育てられて成長し
 2 ペアになって子孫を残し
三、死んでいく


人の一生を単純に見れば以上のようではないだろうか。

少なくとも1950年頃までは、多分そうだったのだろう。

ところが、子供が成長して孫も出来たのになかなか死ねない。

余生と言うには長過ぎるほどの命を人は貰った。

この時間をどう使うのか。

さらに人は身体の体積に比して巨大な脳を持ってしまった。

脳は働き続けることが宿命である。

無念無想で日々を過ごすなどということは到底出来ることではない。

じっとしていたらすぐに妄想が湧いてくる。

振り払おうとすればするほどムクムクと湧いてくる。

むしろその妄想妄念をどうするかが大きな課題となる。

まとめてみると、巨大な脳と子育てを終わった後のあり余る時間。

この二つは、一人一人の問題であって簡単に理想を述べても何の意味もない。

私は毎朝、南無阿弥陀仏と呟きながら今日一日どう暮らそうかと考える。

さて読書の話。

私にとって読書は毎日の食事のようになっている。

と言って多読を誇るのでもなく、

インテリだと胸を張るつもりもない。

面白いから読むのであり、読みたいから読むのである。

近頃よく剣豪小説を読む。

ちょっと血生臭いが、さして努力はいらない。

食べ物で言えばスナック菓子のようなものか。

もちろん好きで読んでいるのだから悪口を言っているのではない。

振り返ると、藤沢周平、山本周五郎、司馬遼太郎、山田風太郎をまとめて読んでいた時期があった。

それぞれに味があり楽しくもある。

この四氏にはスナック菓子以上のものもあるように思われる。

山本、山田両氏はまさに奇人であり、私の記憶のどこかに刻み込まれた。

今年の正月頃から、佐伯泰英、池波正太郎のシリーズものを百冊以上読んでまだ続いている。

スナック菓子の食べ過ぎで体重が重くなったような気もする。

その他何やかや読んでいる。

朝刊は朝ご飯だし、切れのいい包丁でさばいた刺身のような詩も好きだし、俳句、短歌、漢詩、宗教書などもそれぞれにうまい。

座右の書で取り上げた本も時々表紙をさすったりしている。

電子書籍などやかましく言われているが、本を見たり触ったりするのが好きなので、本は手離せない。

電子書籍はマネキン人形を抱いているようだ、食事というよりエサのようだ、と言ったら時代遅れと笑われるだろうか。

ちょっと趣旨からそれてしまった。これはこれでまた考えてみよう。

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