七月の『思郷書庵展』に先生は来ることが出来ませんでした。
その後、お見舞いに行った時に、見に行くと言って周りの者とケンカしたとおっしゃって笑っていました。
『思郷書庵展』の写真と、わたしの臨書の掛け軸三点を持参して見て頂きました。
『孔子廟堂碑』の臨書を歓んでくれました。先生もお好きだったに違いない。
先生の書風はどことなく『孔子廟堂碑』に似ているように思う。
その後、『芹沢 銈介作品集』の残りを下さると言うので、八月二十四日に病院に伺いました。(五月のわたしの個展の時に一冊頂いていました。)
奥様が、重い本を五冊も病院まで持って来ていてくれました。
作品集の中でも五巻の肉筆の書画にはことのほか愛着が深いようでした。自分の果たせなかったことを引き継いでくれという無言のメッセージを強く感じました。
その時に、先生の表情が柔らかくなっていると感じました。そして、少し遠くを見ているように感じました。
これが別れと覚悟しました。
十月二十七日から始まる小倉のギャラリー八雲での『新もやいの会展』の時、先生から電話がなかったので体調が良くないと薄々は感じていました。
しかし、ご家族に遠慮があってこちらからは電話をしませんでした。
八月の終わりに病室で見せた安らかなまなざしを乱すことがあってはいけないと思いました。
そんなことを考えながらぐずぐずと時間が過ぎて行きました。
しかし、どうも胸騒ぎがして十二月五日の午後七時半ごろ、先生の自宅に電話をしました。
その時間なら奥様が家に居ると思ったからです。しばらく呼び出し音が鳴っていましたが、誰も出る気配がないので受話器を置きました。
翌日の昼、三男の方から電話があり、先生が亡くなられたことを聞きました。夜、病院に駆けつけた時はすでに亡くなられた後で、誰も死に目には会えなかったそうです。
やはり先生は別れに来てくれたと思いました。そして、奇遇にも翌日の葬儀は十一時からだから、小倉教室にも充分間に合う。わたしが葬儀に出席できる日を考えてくれたのかなとふと思いました。
葬儀は、先生の自宅に近い斎場で、書道関係者は数少ないお弟子さんぐらいで、弔辞もなく静かな葬儀でした。
真言密教の葬儀は初めてだったけど、おごそかですばらしい葬儀だと思いました。
さらに、二男の方の挨拶がしみじみと印象に残りました。先生は二年程前に長男を亡くされています。
悲しみの中で、長男が自分に命をくれたと言いつつ『書』に励まれたとのことです。
葬儀が終わり、司会をしていた方が、最後のお別れにお花を棺に入れたい方はどうぞと言うので、西野 白雲さんと中に入った。
葬儀のあった部屋では、棺が中央に移され、親族の方達が棺に花を入れていました。
棺の周りには忍び泣きの声があふれていました。
一瞬ためらいましたが、係りの人から両手に花を受け取ると、すでに花で満杯になっている棺に花を入れました。
我慢していたものがどっと込み上げてきました。
頂いたご恩は返せませんが、後から来る人たちには精いっぱいのことをしますと誓いました。
ところで、思い返すと確かに二年前の『もやいの会展』の頃から鬼気迫るものを感じていました。
その時も、電動車椅子に乗って来てくださり、最終日にまた来てくださった。
一点一点熱心に見てくださいました。カシャリ、カシャリと杖を突く音が今でも耳を離れません。
五時から片付けるので帰られましたが、近くの喫茶店から電話をくださり、わたしの杜甫の詩を書いた三尺×六尺の作品が欲しいと言ってくださいました。
持ち帰って宅急便で送りますと言うと、不満な返事。
じゃ、片付け終わってからお持ちしますと言うと嬉しそうな返事。
西野 白雲さんに手伝ってもらって作品を持参しました。
しかし、夜であまり聞くところもなく、あちこち探し回りました。
町名表示が先生の住む町だったので、自宅に電話してみました。近くまで来ていて、指示通りに路地に入ると、遠くで先生が杖を振っていました。
部屋まで運びましょうと言ったけど、玄関で良いと言うのでそこに置いてきました。
その時の先生は、水滴を三千個も集めて本まで出したというコレクターの目をしていました。
その後の個展の時には掛け軸も買ってくださいました。
三尺×六尺の杜甫の詩は、お会いするたびに名作だと褒めてくださいました。
わたしを認めてくれた最初の人は、師匠である森 士郷先生でした。
師の薫陶を受けて次に認めてくれたのが森本先生でした。
師匠に会う前に読んでいたのが森 有正とくると、わたしは森に縁があるのかもしれない。
しかし、森 有正も森先生も森本先生も亡くなってしまった。
人見知りが激しく、気難しいところのあるわたしを手放しで認めてくれる人は書道界にはあまりいません。
森本先生を亡くしてまた一人になってしまった、そんな気がします。
しかし、森先生からも森本先生からも『志』を託されたと感じています。
わたしに出来ることしか出来ませんが、少しずつでも仕事をしようと思っています。
今年は還暦になります。
師匠は
六十歳までは拾え、六十歳になったらどんどん捨てて、残ったものを手玉に取って磨け
と口癖にしていました。
若い頃からいつも背水の陣でやってきました。
覚悟は出来ています。自分自身を厳しく見つめ直そうと思っています。
(2009年7月 森本 耕雪先生個展会場にて 先生の作品の前で)
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