2011年2月17日木曜日

夢のかけらNo.61『自宅での個展』 2011年2月17日号

と き  1月2日(日)~3日(月) 午前10時~午後4時

正月の二日、三日の二日間だけ自宅の教室、座敷、居間の壁面に八十点、教室のテーブルの上に小品およそ百五十点並べて個展をしました。

自分は何をしてきたのかを振り返ってみたかったのです。

並べてみることが目的だったため、あまり案内もしませんでした。こんなことが出来たのも、カミサンが仕事を辞め家に居るからです。

ブツブツ文句を言いながらも、まんざらでもないようでした。

さて、振り返ってみてどうだったのか。わたしとしては、出来ることはやり尽くしてきたという感があります。

師匠が実に懐の深い人だったので、やりたい放題やらせて頂きました。

書道界では珍しく、文字通り有難いことだと師匠に感謝しています。若い頃から懸命に求めていたので、「本師」に出会えたのだと思っています。

ところで、他人から見ればこれくらいのことと思うかもしれません。

他人の目は厳しいし、他の偉人と比較したうえで判断します。そして、情報伝達の早い社会では、落ち着いて熟成するにはよほどの勇気が必要になります。

わたしは、ずいぶん我を張ってきたように思います。反省するところも多いが、世の中に流されずに真実を通そうとすると、どこかにひずみが生まれることになるのは仕方のないことだと思っています。

それはいつの世も同じと思われます。文明は進んでいると思われがちです。しかし、科学技術は確かに進んでいますが、人間は住みにくくなっているのではないでしょうか。

アニミズムなどの猥雑なものを切り捨てて、最終形態と思われた一神教は、皮肉なことに一神教同士の争いが絶えません。

自爆して異教徒を殺せば神の国に行けると教える者が居て、それを実行する者たちが居るということは、実に信じ難いことです。宗教は何のためにあるのだろうと考えざるを得ません。


個展の話から少しそれてきました。しかし、作品は、自分自身を見つめるところから生まれてくると考えているので、どうしても哲学、思想、宗教などは避けて通れないと思っています。

わたしは、浄土真宗門徒と思っているので、阿弥陀さんの一神教に近いのですが、実際は八百万の神々を近くに感じるし、山川草木悉皆成佛と思っているから、どこかアニミズムをぬぐい切れません。

それらもひっくるめて阿弥陀さんと思えばそれはそれで良いのかもしれません。

人はシンプルなものに憧れがあると思います。憧れと言うより美学と言った方がいいかもしれません。

一神教の原理主義者は、自分たちの神を最上とするあまり他を認めません。人は猥雑なものを早く捨て過ぎたのではないでしょうか。

そのために文化は細り、一部の者たちに主導権が集まっているのではないでしょうか。グローバル化というのも、文化の多様性をなくし、画一的で薄っぺらなものにしようという運動なのではないでしょうか。

そんな気がしてなりません。

ところで、わたしは、詩、書、画、篆刻と言いつつ自分の世界を表現してきました。

自分の現在見える世界を表現してきました。作品とは自己の内容だと思っています。

今回の自宅での個展は、自分の全体像をある程度見せてくれました。

そして、この辺りをもっと伸ばしてみようという思いがふくらみました。生きている間は、どこまでも広がり、深まっていくことが出来る。

常に疑問が湧きあがる中で、答えは幾様にも組み立てては崩れていく。そこには安易な正解を拒むものがひそんでいるように思えます。

つまり、わたしの化け物のような定まることのない『心』がうごめいている間は、答えは定まらないように思えます。

大悟二回、小悟数を知らずなどと禅宗のお坊さんが、さとりを数で数えたりするのは、答えが定まることのない証しではないでしょうか。

答えが定まってしまったら、考えることもやることもなくなってしまいます。

化け物のような凡夫が居る限り、答えは定まらないということに気付くことが、さとりなのではないでしょうか。そんな風に思っています。

師匠は、亡くなる少し前に、病室で、


「書は解らない。」


とぽつりと言われました。その時、解らないからもっともっと書きたいという無念の気持ちを強く感じました。

書はこうだと解った気になり、正解が見つかったと思った時から堕落が始まるのでしょう。

正月に自分の作品を眺めながら、これからのことをぼんやりと考えていました。






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