今年の三月に六十歳になります。
耳順
孔子は人間観察の天才だとつくづく思う。
六十にして耳順(したが)う。
人間観察と言っても他人ではなく、自分自身を徹底して見詰めている。
だからこそこんなことが言えるのだろう。
ところで、今年のテーマは、『うれしくて』としました。
無理やりに根性でうれしく思おうと言うのではありません。
生きているといろんなことがあります。凡夫である私は、楽しいことだけだったらどんなに良いだろうと思い、厭なことからは逃れたいと思い、死にたくないと願う。
しかし、楽しいこと、うれしいことはほんの一瞬で通り過ぎていく。
厭なこと、思い通りにならないこと、悲しいことが毎日続く。
どちらでもないこともある。そして、一日一日死に近付いていく。
耳順うということは、他人の厳しい意見が素直に聞けるようになると言うだけではなさそうです。
自分の命が大きな命の働きの中で生かされている、ということに気付かされる。
それは自分の力で気付いたのではなく、大きな命から気付かされたのだということに思い当たります。
そのことがうれしい。
そこから感謝の気持ちが湧いてくるのです。
浄土真宗で言う『自力』から『他力』に質が変わっていくのだと思う。そうです。質が変わるのです。
ブドウの果汁がワインになるように。そのことを『さとり』などと言うのかもしれない。
しかし、『さとり』と言う手垢で汚れた言葉は使うまい。南無阿弥陀仏と心の底から言えるようになりました。
それは、人によっては、他の真言でも良いし、南無妙法蓮華経でも良いのです。
アーメンでも同じことだと思います。そんな風に思えるようになったことがうれしいのです。
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